とも姐の神戸散歩

処女塚古墳

公開 : 2021/1/11

処女塚古墳

この地域に伝わる悲恋の物語菟原処女うない おとめ伝説」(生田川伝説)の主人公・菟原処女の墓と伝えられているのが、この処女塚古墳。「処女塚」と書いて「おとめづか」と読みます。

伝説のあらすじはリンク先を参考にしていただくとして、神戸では数少ない前方後方墳です。

処女塚古墳

前方後方墳の「前方」から「後方」(山側)を見る。

処女塚古墳は1979年の発掘調査が行われるまでは前方後円墳と考えられていましたが、それまでは古墳の形が判別できないほどの状態だったそうです。

発掘調査の結果、南北に全長およそ70mの古墳であることがわかりました。

処女塚古墳

東明歩道橋から処女塚古墳を見る。

古墳からは石棺が発掘されていますが、古墳が完成した後に石棺が埋められた形跡があることがわかっています。古墳の主は伝説の処女ではなく、3世紀後半から4世紀前半の地元の豪族と考えられています。

処女塚古墳

田辺福麻呂の歌碑(左)と小山田高家の碑(右)

田辺福麻呂は『万葉集』にその名を残す歌人、小山田高家は南北朝時代の武将。時代が全く異なる人物の碑が隣同士にあるのですが、それには理由があります。

まず、田辺福麻呂さん(生没年不明・奈良時代)。
処女塚古墳を訪れ、菟原処女と2人の男性に思いを寄せる歌を『万葉集』に残しました。奈良時代には、菟原処女伝説がこの地域で伝承されていたことがわかります。

中世から近世の文学作品に登場する菟原処女伝説で、菟原処女は「津の国の生田の川」で入水自殺(『大和物語』、謡曲『求塚』)を図るのですが、『万葉集』には海で入水自殺をしたととれる表現があり、生田川は全く登場しません。それに伝説の舞台は葦屋あしのや(現在の東灘区から芦屋市)となっています。

つまり「生田川」は、後付けの設定だったのです。

平安時代に編纂された『大和物語』で、菟原処女伝説は、なぜか「生田川」というタイトルで発表されます。これには諸説があります。

たとえば「葦屋」を「葺屋ふきや」と読み誤り、「葺屋」地域にあった生田川を舞台にしたのでは…という説がありますが、現在の中央区東部を「葺屋(葺屋荘ふきやのしょう)」とよんだのは鎌倉時代以降とされるので、説としては弱いかもしれません。

また菟原処女の死を劇的に描くため「生きる」の文字が入った「生田川」で自殺させる設定を生み出したのでは…という説もありますが、今となっては確かめようがない「謎」です。しかし『大和物語』以降、菟原処女伝説は能の『求塚』や、森鴎外の戯曲『生田川』などで、伝説の舞台は生田川に固定化されました。

※「生田」の地名は日本書紀に登場する「活田長峡国いくたながおのくに」から転じた地名。詳細はこちらをご参考ください。

摂津名所図会 処女塚

次に小山田高家さん(?〜1336年)。
ここでは生田川ではなく湊川が絡んできます。

上の図は江戸時代の旅行ガイドブック『摂津名所図会』(1798年刊行・国立国会図書館所蔵)に描かれた処女塚古墳。この絵の右上に描かれている武将が小山田高家(小山田太郎)です。

1336年の湊川の戦いで敗れた新田義貞は、敗走しながらも足利軍と小競り合いを繰り返していました。ちょうど処女塚でその様子を見ていた小山田高家は、敵の矢の襲撃を受けて動けなくなった新田義貞の馬と自分の馬を交換して、新田義貞を逃がしたのです。

取り残された小山田は処女塚で敵を迎え撃つも、最期は敵に討たれ、ここで命を落としました。この話は『太平記』で美談として語られ、江戸時代に、地元の人たちによって、この石碑が建立されました。

※上の『摂津名所図会』の挿絵では「求塚」と書かれていますが、江戸時代、処女塚、東求女塚、西求女塚の3古墳をすべて「求塚」(求女塚)と紹介する地図があり、それに倣ったものと思われます。なお『摂津名所図会』は本文で「処女塚」と紹介しています。

処女塚

交差点の名前にも残る「処女塚」。その後ろが処女塚古墳。

「乙女塚」ではなく「処女塚」というのが、ドライバーの目を引きますね。

処女塚

交差点の標識を、よく見ると「処」の字が上から貼られてますね。標識業者が「乙女塚」と誤植したらしいです。

実は神戸には「乙女塚古墳」というのも存在していました。それはまた別の話で(^^;)

※参考サイト:
全国遺跡報告総覧 史跡処女塚古墳
文化遺産オンライン 処女塚古墳

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