とも姐の神戸散歩

神戸市中央区の地名のミステリー

更新 : 2018/08/24・追記 : 2018/09/09

(1) 下山手通、中山手通はあるのに上山手通がない!?

神戸市中央区の地図

異人館がある北野町、山本通の南にあるのが中山手通。さらにその南、兵庫県庁があるのが下山手通。おわかりいただけるだろうか。「中」と「下」があるのに「上」…つまり「上山手通」がない!

「もしかすると、過去に上山手通が実在していたのではないか」との仮説をたてて調べてみると「神戸大学付属図書館デジタルアーカイブ・新聞記事文庫」に「上山手通」に関する情報を見つけた。

1916(大正5)年5月26日の『大阪朝日新聞』神戸版に連載されていた「町名由来記」(会下山人)によると「上山手通」が存在したというのだ。

山手通、山手に上山手、中山手、下山手の三つあった、上山手通は北野町と神戸一番組と中宮町と花隈はなくま町との四つの一部分を称していたが今は此上山手のみは名称がなくて中と下のみに成ている

大正時代の時点で上山手通は消滅していたようだ。記事に出てくる「神戸一番組」が、現在のどの地域を指すのかは調べきれなかったが、現存する北野町、花隈はなくま町、そして現存しないが中山手通5丁目と山本通5丁目に存在していた中宮町の位置関係から想像すると山本通の南側が上山手通であったのではないだろうか。わかりやすく言うと、中山手通の山側が上山手通だったことに。(そのまんまやん!)

『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』を追うと、この辺りは1872年に神戸町に編入されるまで北野村と呼ばれており、その地域は現在の北長狭通きたながさどおりあたりまであったそうだ。そして1874年、神戸町の旧北野村地域は山本通、上山手通、中山手通、下山手通、北長狭通に再編され、さらに1878年には上山手通が中山手通に編入されたとの記述がある。1874年〜1878年には「上山手通」は存在していたようだ。

ところが神戸大学附属図書館でデジタルアーカイブされている古地図を見てみると、1890年発行の『神戸市細見全図』に「上山手通」が記載されているのである。

神戸市細見全図

もっと不可解なのは、この地図の10年前に発行された『兵神市街之図』には「下山手通」「中山手通」はあるのに「上山手通」はないのだ。

兵神市街之図

新たな謎ではあるが、本稿では明治時代に「上山手通」は存在していた。と結論づけて終わるのであった。

(2) 北長狭通はあるのに南長狭通がない!?

下山手通の南側にあるのが北長狭通。そしてその南、阪急とJRの高架を挟んで南側は三宮町。おわかりいただけるだろうか。「北長狭通」はあるのに「南長狭通」がない!

そもそも「北長狭通」の「長狭」とはなんなのだろうか。再び、『大阪朝日新聞』神戸版に連載されていた「町名由来記」(会下山人)を紐解いてみる。

日本書記の神功皇后摂政二年の項に(前略)亦稚日女尊誨之日、吾欲居活田長峡国云々とある、此生田長峡国というのが現在の神戸の地である、活田とは円き田という地形が円く見ゆるを其儘に呼んだのである、現今の敏馬みぬめから原田北へ青谷、春日野を西へ布引山、又西へ諏訪それから花隈を南へと丘阜が恰も半あ山円を画しているのが、活田の地域でる、此半円形の地の中へ六甲山脈の摩耶山系が一つ熊内くもちの所へ長い尾を曳いているのを長狭といったので、稚日女尊即ち生田神は此長狭に鎮座ましました

※引用記事で後半が「長峡」ではなく「長狭」となっていますが、文脈から「長峡」の誤植と思われます。

かみ砕いて説明すると…

『日本書紀』に稚日女尊わかひるめのみこと活田長峡国いくたながおのくににいたという記述があり、そして、この活田長峡国が神戸(現在の神戸市中央区)の地域であるという。「活田いくた(のちに「生田」という字が当てられる)」とは丸い田んぼという意味があり、灘区西部から神戸市中央区西部まで半円形の形で広がっていたことにちなむのだとか。そして、その半円形の地形のうち、現在の熊内くもち町(布引のあたり)に六甲山地が長い尾のように出っ張っていて、その地形を「長峡ながお」と言ったそうだ。その「長峡」に稚日女尊は鎮座したという。

それなら熊内町を「長峡町」にすればよさそうなもの。でも、ここから、生田神社が現在の地になった伝説が絡んでくる。

生田神社の杉盛

生田神社の杉盛

ここまで頻繁に出てくる「稚日女尊わかひるめのみこと」とは、生田神社の祭神である。稚日女尊はもともと布引山中に祀られていたが、土砂崩れで社が流されるものの、ご神体を地元の村人が救出し、現在に地に祀ったことが生田神社の起源とされている。余談だが、生田神社が正月に門松ではなく杉盛を飾るのは、土砂崩れの際、松の木が社を壊したたため、生田の神(稚日女尊)は松の木を嫌っているという伝説からである。

現在の北長狭通は、生田神社の海側にあるが、生田神社を中心とした熊内、中尾、花隈、脇浜わきのはま、二宮、三宮、御幸ごこう通、生田町、北長狭通といった地名は生田神社に関係して付けられたもので、地域的に意味があるものではないらしい。確かにそうである。そもそも「長峡」は山地の地形を表しているにもかかわらず、長峡の北でもなく、生田神社よりも海側に「北長狭通」があるのは、おかしい。

会下山人氏の言葉を引用すると…

以上は生田神社ある為めに其因縁を附した町名と思われる。

※二宮、三宮は生田神社の裔神を祀る神社に由来しますが、生田神社の裔神に懐疑的な説もあるみたいです。詳細は本稿で引用した「町名由来記」の3の後半を。

前置きが長くなったが、ここまで、私は「長狭」を「長峡」と書いているのにお気づきだろうか。これは日本書紀に出てくる「活田長峡国」の表記が「長峡」だからである。つまり、生田神社にちなんだ地名が「北長狭通」というのは、方角はともかくとして、誤字なのだ。

すなわち、現在の「北長狭通」は「北長峡通」とすべきで、もっと発展させると南がないのだから「長峡ながお通」とすべき地名だったのである。

これには、会下山人氏も訂正の届け出をしたいぐらいお怒りであった。

長峡の誤りがいつまででも訂正の出願人がない為めに、馬鹿気た名称を襲踏しているのだ、折角古名を伝えん為めに命じておきながら誤った儘で末代まで之を伝うることは心外千万である、何か条令でもあれば正誤の申込をしたいものである、

(中略)

北長狭はあっても南長狭は鉄道の敷地内になって仕舞っている、いつその事正しく長峡通として置けばよいのに、キタナガハサミドホリなどと大に田舎人を困らせている。

※ちなみに「狭」は「ハサミ」(挟み)とは読みません。

では、「南長狭通」は実在したのだろうか。

実は前項で紹介した『兵神市街之図』には北長狭通の南にしっかりと「南長狭通」の地名が載っているのである。現在の地名で言うと元町高架通。大正時代には会下山人氏が言うように「南長狭は鉄道の敷地内」に消えてしまった。

兵神市街之図

そして「南長狭通」が消滅したにも関わらず「誤った儘で末代まで之を伝うることは心外千万」とまでいわれた「北長狭通」の誤りは、平成時代が終わろうとしている今もそのままである。

現在の三宮高架商店街「ピアザ神戸」の住所は北長狭通です。

最後に、熊内町を「長峡町」に、と前述したが、実は熊内町の東に隣接する「中尾町」とは「長峡」から転じた地名なんだとか。神戸の地名も奥が深い。

(3) 「あさひ」は西、「ひぐれ」は東?

神戸市中央区の地図

布引の滝を上流にもつ新生田川流域の地名の多くは平安時代から鎌倉時代の貴族らが詠んだ歌にちなんだ地名が多いことは、当サイトの布引の滝のページでも触れているが、地図を眺めてみると「おや?」と気付いたことがある。

生田川を挟んで西側に「旭通」、東側には「日暮通」という地名がある。この地名がついた頃、太陽は西から昇って、東に沈んだのだろうか。

これについて、大正時代の地名博士・会下山人氏は何か書いていないだろうか…と読み進めてみると…

旭通、東雲しののめからの思い付きであろうが併し日暮通が東で旭通が西にあるのがちと矛盾であるまいか。

やはり、西に旭、東に日暮はおかしいという。

旭通に関しては、鎌倉時代の太政大臣・西園寺実氏さいおんじさねうじが詠んだ「呉竹の夜の間の雨に洗ひほして朝日に晒す布引の滝」にちなんだものという説が有力であり、ズバリ「朝日」から「旭通」になったと言ってもいいだろう。

会下山人氏がいう「東雲しののめ」とは川の東にある「東雲通しののめどおり」のことで、平安時代の歌人・藤原家隆ふじわらのいえたかが詠んだ「みつか夜のまだし慣れぬ芦の屋のつまもあらはに明る東雲」が地名の由来と言う説がある。

この歌に限ったことではありませんが、和歌などに出てくる「芦の屋」(葦屋)は現在の兵庫県芦屋市を指すと言われていますが、「葦屋」は現在の中央区東部にあった荘園「葺屋荘ふきやのしょう」の誤記ではないかという説もあったり…その辺、深く掘り下げると切りが無いので割愛(^^;)

日暮通については、ちょっと違ってくる。

日暮通、まさか其日暮そのひぐらしの意ではない、旧字地の名称を取ったので、今の第一中学校の敷地は元庄の池という大池であった此池の樋の放出口をヒグラと字してあった此名を日暮と命名したものだ。

かつて、このあたりに「庄の池」という池があり、この池にはといがあって、この樋にちなみ「ヒグラ」(樋倉)という地名が付けられていたという。そして、これに「日暮」という字をあてたのが「日暮通」のルーツだというのだ。つまり、日暮は夕方という意味ではないのである。

ところが『角川日本地名大辞典 28 兵庫県』によると鎌倉時代の門跡・澄覚法親王ちょうかくほっしんのうが詠んだ「布引の滝見て今日の日は暮れぬ一夜宿かせ峰の笹竹」にちなむ地名だという。地名の成り行きからすると、前者が具体的な気がするが、真相は如何に。

(4) 「中央区神戸港地方」は港ではなく山の地名!?

神戸市中央区の地図

神戸市街地から山を見るとイカリと神戸市章が書かれた山を見える。それぞれを錨山、市章山というが、これらの山の住所をご存じだろうか。

あの山々の住所は「神戸市中央区神戸港地方」(郵便番号650-0007)という。

でも、山間部の地名を「神戸港地方」というには無理がある。そもそも「神戸港地方」の「地方」は「ちほう」ではなく「じかた」と読む。

これまで散々参考にした会下山人氏の「町名由来記」には「神戸港地方」は全く出てこない。それもそのはずで、この辺りが正式に「神戸港地方」という住所になったのは比較的新しく、1980年に神戸市生田区と葺合ふきあい区が合併して中央区が誕生したと同時に「神戸港地方」という地名が誕生したそうだ。それまでは「生田区港地方みなとじかた」という地名だったらしい。

※明治時代から昭和20年ごろまで「神戸港地方」と表記されていた時期がありますが、これは旧生田区地域の全ての地名に「神戸」の冠称がつけられていたものに倣ったもので、現在の「神戸港地方」とは性質が異なります。ややこしいですね。

いろいろ調べても来歴があやふや。『神戸の町名 改訂版』(神戸新聞総合出版センター)によると、明治時代、当時の神戸の市街地部を「神戸港のうち」と呼ぶことに対して、神戸市街地に面した山間部を「神戸港地方」と言ったのが始まりではないかという。

結論としては弱いが、この辺りをなんとなく「神戸港地方」と言っていたのが、そのまま地名として残ったのではないだろうか。

参考リンク:
『大阪朝日新聞』神戸版・1916年5月9日〜7月25日「町名由来記」(会下山人)
 ※引用:神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 『大阪朝日新聞』日本(4-027)
『兵神市街之図』(1880年1月・粟田福三郎編集 / 神戸大学附属図書館住田文庫)
『神戸市細見全図』(1890年・山川一声著 / 神戸大学附属図書館住田文庫)
『中央区あんない』(2017年・中央区役所)

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