公開 : 2021/1/11
悲恋の物語・菟原処女伝説で、菟原処女にプロポーズした2人の男性のうちのひとり・茅渟壮士の墓と伝えられる東求女塚古墳…なんやけど、“古墳”が感じられない…。
現在は児童公園「求女塚東公園」となっています。
1915年、地元の人により建立された「求女塚之碑」だけが古墳の存在を伝えていますが、漢文で書かれているようで、何が書いてあるのか読めませんでした。
とりあえず、公園内に東灘区役所が設置した案内板の解説によると、東求女塚古墳は全長80mの前方後円墳。明治時代には銅鏡、車輪石、剣、玉などが出土していますが、これらは東京国立博物館に収蔵されているそう。
しかし、一人の女性をライバルと取り合った伝説から「求女塚」と名付けられた、この古墳に哀愁を感じるのは私だけでしょうか。一方で、江戸時代の旅行ガイドブック『摂津名所図会』によると、地元の人はこの古墳のことを「鬼塚」と呼んでいたとの記述もあります。
石碑のある台は前方後円墳の「後円」の部分とのことなので、古墳散歩では恒例の「後円」から「前方」を眺めてみました。公園の隣には幼稚園がありますが、この幼稚園も古墳跡に建てられています。
ちなみに古墳の前方は、西に1.5kmにある処女塚古墳を向いており、古代の人は、その様子から、菟原処女に想いを寄せた茅渟壮士の墓と思ったのでしょう。でも考古学的には処女塚古墳は4世紀前半、この東求女塚古墳は4世紀後半に造られたと考えられており、時代にズレがあります。
上の俯瞰図は江戸時代の1798年に刊行された『摂津名所図会』(国立国会図書館所蔵)に描かれた東求塚古墳 (左のページの中央右)
『摂津名所図会』は摂津=現在の大阪から神戸にかけての観光名所を紹介するガイドブックで「菟原処女伝説」についても詳しく書かれています。江戸時代は有名な観光スポットだったようです。
その理由として、奈良時代の『万葉集』、平安時代の『大和物語』に語り継がれた菟原処女伝説は、南北朝時代、謡曲『求塚』として、芸能の分野に引き継がれたことが大きいでしょう。
謡曲『求塚』は、旅の僧が、摂津国・生田の里で若菜を摘んでいた若い女性に「求塚」はどこにあるのかと訊ねるところから物語が始まります。その若い女性とは菟原処女の亡霊であり、これまでの経緯を僧に語ります。
しかし、その内容がホラー。2人の男が射当てた生田川の水鳥は化け物となって、菟原処女を地獄の業火で焼き尽くそうとしたというのです。
では、茅渟壮士の恋のライバル・菟原壮士の墓と伝えられる西求女塚古墳に行ってみましょう。
※参考サイト:
・遺跡ウォーカー 東求女塚古墳
・国立博物館所蔵品統合検索システム 東求女塚古墳出土
車輪石 , 三角縁四神四獣鏡 , 三角縁三神三獣鏡 , 三角縁三神三獣一虫鏡 , 木片
・銕仙会 能楽事典 求塚