文豪・谷崎潤一郎が1936年から1943年まで住まった「倚松庵」。1929年竣工の昭和の民家です。代表作『細雪』は、この建物が舞台であり、この建物で書かれました。
倚松庵は数奇な運命をたどる建物です。
1929年、現在地よりも南、神戸新交通六甲アイランド線(六甲ライナー)魚崎駅あたりにありました(移築された理由は後述)。
1936年、再婚したばかりの谷崎は妻・松子と松子の妹たち、そして連れ子の大家族となってしまい、これまで住んでいた芦屋(当時は精道村)の家が手狭になったことから、より広い家を求めて転居先を探していました。
いくつかの家を紹介してもらうものの、谷崎の希望に添う家は見つからず。しかし、よりによって家探しの案内をしていた家主の家を気に入ってしまい、結局、ここに住まうことになりました。
家主が住んでいた家を借りるだけでは飽き足らず、翌年には庭に離れを建築します(現在の倚松庵にはその部分はありません)。
1942年、倚松庵で過ごす妻と妹たちを題材に『細雪』を執筆します。
その年の秋、家主から退去を求められます。その際、谷崎は増築した部分を実費で買い取るよう家主に要求したそうです。
家主の住処を借り、なおかつ借り主が増築した建物を家主に買い取らせるとは、無茶苦茶な話ですね。
しかし、谷崎は家を出て行く様子がなかったことから、およそ1年後、家主は、予め用意した近隣の家に転居することを提案。谷崎はその提案を受け入れて倚松庵を出て行くことになりました。
なお、その一連のやりとりの手紙、契約書のコピーがすべて倚松庵で展示されています。
時は流れて1986年。住吉川沿いに神戸新交通六甲アイランド線(六甲ライナー)の計画が持ち上がります。その橋脚予定地に建っていたのが倚松庵でした。
地元住民らは、神戸市を相手取り「住吉川景観訴訟」を起こします。当時としては珍しく「景観権」が争われました。裁判の中では『細雪』に描かれる倚松庵とその近隣の景観の破壊についても触れられました。
裁判は結果的に住民側の敗訴となりますが、神戸市は妥協策として、六甲ライナーが住宅地を通るときに窓を曇りガラスにする対策と、倚松庵の移築を実施しました。
1989年、倚松庵は現在地に移築されます。当時は物議を醸した倚松庵の移築ですが、結果的に阪神・淡路大震災から倚松庵を守ることになります。
1995年の阪神・淡路大震災では、倚松庵がもともとあった場所に造られた六甲ライナーの橋脚が損壊。いっぽう移築された倚松庵は奇跡的に震災被害を免れたのです。
実は震災前に係争された住吉川景観訴訟では、このことは予見されており、六甲アイランド線の予定地が河川敷で地盤が弱く、大地震に耐えられない可能性が指摘されていたのです。
さて、これまでの写真でも気になっていた方もいると思いますが、軒先に飾られた星形の飾り。これは谷崎の後に倚松庵に住んだ人の証言により復元された外灯。つまり、移り住んだときには存在していた=谷崎が住んでいた頃からあったものとされています。
裏側から…移築されたことがバレバレな風景なので、見なかったことにしましょう😓
※公式サイト:神戸市 倚松庵(『細雪』の家へようこそ)
※参考サイト:住吉川景観訴訟 (神戸合同法律事務所) , 神戸地方裁判所 平成2年(行ウ)8号 判決 (大判例)