とも姐の神戸散歩

旧生田川

公開 : 2021/1/11 , 写真追加 : 2021/7/11

史蹟・旧生田川の碑

加納町歩道橋の真下に建つ「史蹟・旧生田川」の碑。

新神戸駅から三宮、そして神戸税関へ続く道は「フラワーロード」と名付けられた神戸を代表する道路となっていますが、1871年まで、この道に「生田川」が流れていました。その川幅は江戸時代には80〜90mあったと推定され、神戸を流れる川としてはかなり大きな川だったようです。

史蹟・旧生田川の碑

この石碑は加納町歩道橋の真下にあり、しかも交通量の多い交差点に向かって建っているため、その存在を知っている人はあまりいません(そもそも徒歩で行けない場所に建っている)。

神戸市は三宮から新神戸駅までのフラワーロードに人工水路を作る計画を発表していますが、まさに旧生田川の復活といってもいいでしょうか。そのときには、この碑も、もっと皆さんに見てもらえる場所に移してあげて欲しいですね。

摂津名所図会 生田川

さて、昔の生田川はどんな様子だったのでしょうか。上の図は、江戸時代の旅行ガイドブック『摂津名所図会』(国立国会図書館所蔵)に描かれた生田川。

見開きいっぱいに描かれており、右のページは川面しか描かれていません。この絵からも、江戸時代の生田川は川幅が広かったことがうかがえます。

ところで左のページに描かれている人たちは何者か、気になりませんか?

女性1人に男性2人の「リア充」なグループ。実はこの3人、東神戸に伝わる悲恋の物語「菟原処女うない おとめ伝説」(生田川伝説)の登場人物です。女性はこのあと…

すみわびぬ わが身投げてむ 津の国の 生田の川は 名のみなりけり

…という辞世の歌を詠んで、生田川へ入水自殺し、一緒にいる男性2人も後を追ったとの伝説が残されています。

フラワーロード

そして現在の旧生田川。明治初期までは、ここは川の中でした。

加納宗七像

現在、生田川は新神戸駅から三宮方向ではなく、まっすぐ神戸港へ流れています。

ここで登場するのが上の写真の石像となった人物。彼は紀州出身の豪商・加納宗七です。

開港間もない神戸では、旧生田川の西岸に外国人居留地が造成されたのですが、雨が降るごとに生田川は氾濫を起こし、外国人居留地に被害をもたらせていたそうです。

明治政府は生田川の付け替え工事を計画。これを加納宗七らが落札し、1871年、わずか3か月で新生田川を造成、旧生田川からの付け替え工事を完了させました。

加納宗七像

加納は、さらに先を見据え、私費を投じて、台風被害から船を守るための避難港を、旧生田川の河口・現在の「みなとのもり公園」付近に整備しました。

1873年には、旧生田川の川筋の土地を「加納町」と名付け、加納の功績を讃えました(現在の神戸市役所は加納町に存在します)。

※加納宗七は、出身地の和歌山でも紀ノ川の整備に尽力したことから、紀ノ川沿いに「和歌山市加納町」という地名が存在しています。

1981年には、旧生田川の下流西岸に当たる東遊園地に、加納宗七の石像と旧生田川を模したモニュメントが設置されました。

ちなみに加納は幕末の頃、陸奥宗光と親交を持ち倒幕派として暗躍していたそう。モニュメントの「加納宗七」の文字は陸奥宗光が加納に当てた手紙の宛先に書かれた文字を模刻したものです。

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