とも姐の神戸散歩

島守の広場

公開 : 2022/6/24

  島守の広場

須磨寺の参道にある「島守しまもりの広場」。

神戸市民で島田あきらを知っている人はどれだけいるでしょうか?

島田叡(1901〜1945?)は1945年、鉄の暴風とたとえられる沖縄戦時下で沖縄県知事を務めた人物。島田は1945年1月、地上戦が迫る沖縄県へ赴任し、県民の疎開に尽力しました。最終的には10万以上の県民の命を救い、今も沖縄県では「島守」として敬われています。

島守の広場

島田の実家が須磨寺町にあった縁から2022年3月、この地に島田の功績を讃え「島守の広場」が開設されました。

現在はただの空き地のように見えますが、ここには沖縄の桜であるヒカンザクラ(琉球寒緋桜)が植樹されているとのこと。数年後にはこの地に沖縄の桜が花を咲かせていることでしょう。

島田叡氏顕彰碑

一方、沖縄では…おっと、神戸散歩なのに…ということは気にせず、一気に那覇市へ (2018年の沖縄出張のときに立ち寄ってきました)。

那覇市奥武山おうのやま公園に島田叡氏顕彰碑が建てられています。

私が解説するより、碑文をご紹介します。(注釈、ふりがなは私)

《建立の詞》
1945年1月、島田叡氏は風雲急を告げる沖縄に、大阪府内政部長から第27代県知事として赴任しました。その頃沖縄は、前年の「十・十空襲」の被災につづき、住民を巻き込んだ国内唯一の地上戦が始まろうとする直前でした。それは死を賭した「決断」の着任でした。

以来、五か月に及ぶ戦時下の沖縄で県政を先導し、献身的にしかも県民の立場で疎開業務や食糧確保につとめ、多くの県民の命を救いました。

最後の官選知事・島田叡は、沖縄戦で覚悟の最期を遂げ、摩文仁まぶにの「島守の塔」に荒井退造警察部長をはじめとする旧県庁殉職職員(469柱)とともに祀られています。沖縄県民からいまも「沖縄の島守」として慕われている所以です。享年43歳(兵庫県神戸市須磨区出身)

また島田叡は、高校、大学野球でフェアプレーに徹した名選手でもありました。野球をこよなく愛し、すべてに全力を傾けるそのスポーツ精神は、県政の運営にも通底し、つながっていたと思われます。1964年に、故郷・兵庫県の「島田叡氏事跡顕彰会」から沖縄へ「島田杯」が贈られました。そのことが高校球児に甲子園の夢へ育み、大きな励みになりました。

1972年、「本土復帰」の年に兵庫と沖縄両県は友愛提携を結び、兵庫県民からの寄贈「沖縄。兵庫友愛スポーツセンター」をはじめとするさまざまな交流事業を展開してきました。

この島田叡知事のご縁でもたらされた兵庫・沖縄両県のこれまでの交流の歴史と絆は、私たち県民の誇りです。島田叡知事の心を表す「友愛の架け橋」は、これまでも、これからも沖縄県民に引き継がれ、次世代を担う若者たちにとって、大きな宝になるものと信じます。

ここ沖縄県野球の聖地・奥武山にこの碑を建立し、県民のための県政を貫き、県民とともに歩み、沖縄の地に眠る島田叡氏の事蹟を顕彰すると同時に、併せて世界の恒久平和を心から祈念します。

2015年6月吉日 島田叡氏事跡顕彰期成会 会長 嘉数昇明

《碑の構想》
祈り(合掌)、命(ぬちどぅ宝)、平和(球、同心円)、希望(両手)、絆(友愛)

※十・十空襲
1944年10月10日、米軍による沖縄県全域への大空襲。那覇市では市街地の9割が焼失したとされる。日本海軍は事前に空襲を察知していたが、空襲前日に軍幹部が那覇で宴会、報告を受けた司令部もレーダーの不調として空襲対策はとらなかったため、日本軍にも大きなダメージを与えた。

※摩文仁 (糸満市)
沖縄戦で転々と避難していた沖縄県庁が終戦時に置かれていた洞窟があった地域。跡地には島田知事以下、殉職した県職員を慰霊する「島守の塔」が建つ。

※荒井退造 (1900〜1945?)
1943年、沖縄県警察部長として戦禍が迫る沖縄県に赴任。島田が赴任する以前から県民の疎開を画策していたものの、当時の県知事がほとんど沖縄におらず、権限などの問題で疎開が思うように進まなかったことに苦悩していたとされる。
1945年、島田が知事として赴任すると、最前線で疎開の陣頭指揮にあたり、島田と共に「島守」として讃えられる。栃木県宇都宮市出身。

※島田杯
島田は旧制神戸二中(現・兵庫高校)、三高、東京帝国大(現・東京大学)で野球部に在籍。左打ちの俊足外野手として活躍した。大学在学中には三高の野球部監督も務めた。その実績から島田叡の名前は東京ドーム内の野球殿堂博物館の「戦没野球人モニュメント」にも刻まれている。米軍統治下の沖縄では学生野球で名を馳せた島田にあやかって、高校野球優勝校に「島田杯」が贈られ、現在は沖縄県の中学校の硬式と軟式の野球大会と、学童軟式野球大会の優勝チームに「島田杯」が贈られている。

兵庫・沖縄友愛グラウンド

島田叡氏顕彰碑の隣には「兵庫・沖縄友愛グラウンド」と名付けられたグラウンドがあります。

前述の碑文にもある通り、神戸出身の島田叡が沖縄県知事として県民の疎開を進めたことをきっかけに、我が兵庫県は沖縄県と友愛提携を結んでいます。

兵庫・沖縄友愛グラウンド

兵庫県民の募金により、1975年に友愛スポーツセンターが建設されましたが、2008年に老朽化で取り壊され、その後継として奥武山公園のグラウンドに「兵庫」の名前が記されました。

さて、島田知事のその後はどうなったのでしょうか。

沖縄で組織的な戦争が終結したとされる1945年6月、島田知事は糸満市内の洞窟に置かれた臨時県庁で荒井警察部長と一緒にいたところを県職員に目撃された後、消息不明となっています。2022年現在も遺留品、遺体は見つかっていません。

※関連サイト:
沖縄・兵庫友愛交流構築事業(沖縄県)
兵庫・沖縄友愛提携50周年記念事業 未来につなぐ「命どぅ宝」(兵庫県・PDF)

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