公開 : 2020/11/17
源平合戦・一ノ谷の戦い(1184年)で非業の死を遂げた平敦盛ゆかりの地の一つである須磨寺にやってきました。
仁王門をくぐって、左手に見えてくるのが、この源平の庭。平敦盛と対峙する熊谷直実を銅像で再現しています。
平敦盛(1169〜1184)。一ノ谷の戦い当時、今の年齢で15歳。一ノ谷の海岸を馬に乗って、源氏の追っ手から逃げようとしていたところ、熊谷直実に「敵に後ろを見せるのは卑怯ではないか」と呼び止められます。
熊谷直実(1141〜1207)。源氏の武将で一ノ谷の戦い当時、今の年齢で43歳。直実の声かけに振り返った敦盛の顔を見て、自分の息子と同い年であり、その美少年の顔立ちに衝撃を受けます。
『平家物語』などでは、敵であるものの、まだ若い敦盛を助けようと名前を尋ねるのですが、敦盛は名乗らず「自分の首を取って、人に尋ねればよい」と自ら首を取るように勧めます。
須磨寺の参道を奥へ進むと「あつもり首塚」の道標が見えてきます。
直実は自分の息子の首を取るような気持ちになったのでしょうか。涙を流しながら敦盛の首を討ち取ったと伝えられます。
一ノ谷の戦いでは須磨寺は源義経の陣地になっていたこともあり、直実は敦盛の首を義経に見せ、その首は平敦盛であることを知らされます。
敦盛首塚
一ノ谷の敦盛塚と比べると、こぢんまりとしています。
直実にとって、平家の武将の首を取ったことよりも、自分の息子と変わらない若い武将の首を討ち取らなければならない運命を悔いたようで、敦盛の遺品と敦盛の最期を綴った手紙を敵方でもあり、敦盛の父・経盛に送ったそう。その後、直実は出家し、敦盛を懇ろに弔ったと言われます。
敦盛の遺品・青葉の笛と高麗笛。須磨寺宝物館の入口に展示されています。
直実は敦盛の死後、遺品をまとめる際に、戦中でも笛を携行していたことにも感動したと言われます。
敦盛と直実の一連の逸話は、後に『平家物語』などの文学や謡曲・幸若舞の『敦盛』として語り継がれます。特に舞の『敦盛』は織田信長が本能寺で焼き討ちに遭う直前まで舞っていたことでも知られます。また織田信長の名言「人間五十年〜」のくだりは『敦盛』の中で直実の心境を綴った場面からの引用です。
また植物の世界では「アツモリソウ」「クマガイソウ」の和名がついた草があります。それぞれ敦盛と直実が背負っていた母衣に似た花を咲かせますが、それぞれ環境省の絶滅危惧種のリストに入っており、貴重な植物となっています。
そんな逸話もあって、敦盛の「青葉の笛」がある須磨寺は江戸時代には観光名所となり、「青葉の笛」を見るためだけに全国から大勢の観光客が訪れたそうです。
その観光客の中に俳人・松尾芭蕉もいました。芭蕉は「青葉の笛」を見るための拝観料が高いことを嘆いたとも言われています。ちなみに現在は無料で見ることができます。
※公式サイト:大本山 須磨寺