公開 : 2021/8/27
神戸市立鵯越墓園の入口には「史跡鵯越」の石碑があります。
「鵯越」と言えば、日本史好きなら源平合戦の奇襲作戦「鵯越の逆落とし」を思い浮かべることでしょう。
碑文には下記の文言が記されています。
この道は摂播交通の古道で源平合戦のとき源義経がこの山道のあたりから一ノ谷へ攻め下ったと伝えられる 昭和二十九年二月
その隣には「廿六丁 施主 菅野」と記された小さな碑も。何かの距離を示しているようです。26丁(およそ2.8km)先に何かあるのでしょうか。
墓園の入口にある「史跡鵯越」の碑から、およそ26丁(約2.8km)先に見えてくるのが「義経 馬つなぎの松」の看板。
当然ながら、ここは神戸市立鵯越墓園の中です。ちなみに神戸市立鵯越墓園は東京ディズニーランドの4倍の広さがあります。
看板から50mほど歩くと……どれが「馬つなぎの松」なのでしょうか。
最初に見えてくるのは「白瀧霊泉」という泉。奈良時代に白滝姫が祈って、命の水を湧き出させたという泉だそうですが、枯れてました。
そもそも奈良時代って、源義経とは関係なさそうやけど…。
さらに奥へ入ってみると…見つけました。
荒れ果てた地蔵の傍らの枯れた切り株が、これのようです。ちょっと…これ、ホンマにそうなん?
その横の案内板。要約すると…1184年2月6日の夜、福原(兵庫区)に集まった10万もの平家の軍勢を攻めるため、義経の軍勢がここで作戦会議をした場所とのこと。
そして僅か70騎の義経の騎馬隊が一気に崖を駆け下り、平家の軍勢を蹴散らかした、歴史に残る奇襲攻撃「鵯越の逆落とし」の拠点となった場所だそう。
この切り株に義経が馬をつないだかどうかはさておき「義経公御陣の跡」とも呼ばれているようです。
ちなみに「鵯越の逆落とし」は、実は創作だとか、本当は鵯越ではなく一ノ谷で実行されたとか、「逆落とし」ではなく坂道を駆け下りただけの「“坂”落とし」だとか諸説があります。