とも姐の神戸散歩

幻の阪急上筒井駅ターミナル計画

公開 : 2021/11/9

阪急神戸駅とは?

1920年、阪急電車が神戸に乗り入れた頃、神戸の終点は「神戸駅」でした。

その「神戸駅」とは、三宮駅でもJR神戸駅でもありません。現在の地名で言えば中央区坂口通にありました。

「坂口通ってどこ?」

地元の人でない限り、そう思うでしょう。しかも、その神戸駅(本稿では「阪急神戸駅」とします)が存在していた形跡は今となっては見つけることができません。その線路は現在の王子公園駅ホームの東端から西へおよそ900mほど延び、その先に終点の阪急神戸駅があったのです。現在の神戸三宮駅からは直線距離にして北東2kmの場所にありました。

阪急が三宮に進出できなかった理由

阪急上筒井線跡

旧神戸線(上筒井線)跡を横目に通り過ぎる阪急電車

1910年、阪急電鉄の前身である箕面有馬電気軌道は宝塚温泉の開発を行い、そこから派生したレジャー施設や宝塚歌劇で大成功を収めていました。さらに宝塚への集客を高めるため、阪急は神戸への延伸を計画します。

このとき、ライバルの阪神電鉄は、すでに三宮にほど近い雲井通に神戸駅(神戸雲井通駅)を開業。1912年には、現在の神戸国際会館付近に滝道駅を開業させ、まさに阪神間の都心を結ぶ路線を構築していました。

これに対して阪急は高架での三宮乗り入れを計画しますが、神戸市当局は市街地が南北に分断されるとして、地下路線での乗り入れを要望します。両者の立場の違いは大きく、交渉は難航を極めましたが、阪急は着々と工事を進め、1920年、坂口通に終点となる神戸駅を開業することになったのです。

ちなみに神戸市は、既に高架で乗り入れていた鉄道省(現在のJR)にも地下化を求めていましたが、予算が出せないとの理由で断られています。

なぜ神戸市は市街地の分断を懸念していたのでしょうか。当時、旧葺合区(中央区東部)では高架の南側がスラム街と化していました。この辺りは社会活動家・賀川豊彦が貧民救済の拠点を構えていたことでも知られていますが、神戸市は、この地域のスラム化に歯止めを掛けるには高架を撤去して、市街地の一体的な再開発を進めることを考えていたのかもしれません。もちろんスラム化は高架の有無だけで解消できるものではありませんが、高架を挟んで町並みが異なっていたのは事実でした。

関西学院跡地を阪急が所有した謎

神戸文学館

神戸文学館

王子動物園の西隣に、煉瓦造りのチャペルが建っています。現在は神戸文学館になっていますが、もともとは関西学院のチャペルでした。1882年から1929年まで、この辺りは関西学院の広大な敷地で、このチャペルは1904年にアメリカの銀行家の寄付により建てられました。そして、阪急の線路は関西学院の敷地の海側の縁をなぞるように阪急神戸駅へ延びていました。

神戸文学館 関西学院発祥の地の碑

神戸文学館内にある関西学院発祥の地の碑

1929年、関西学院は西宮へ移転するのですが、その翌年、関西学院の敷地内の建物はすべて阪急電鉄の手に渡ります。その意図はいったい何だったのか…ここからは私の推測(妄想)になりますが、阪急は三宮に乗り入れができなかったことも考えて、阪急神戸駅を中心とした、なんらかの開発を計画していたのではないでしょうか。

結果として、阪急は三宮へ乗り入れ、現在は高層の駅ビルを構えていますが、もし、阪急が三宮に乗り入れてなかったら、今ごろ、王子公園駅からJR灘駅にかけて阪急による開発が行われていたかも知れません。

神戸阪急ビル東館 神戸三宮阪急ビル

現在の阪急神戸三宮駅

たとえば、王子動物園あたりにレジャー施設、坂口通の神戸駅には高層の駅ビルが建ち、駅前には阪急百貨店ができ、水道筋商店街からJR灘駅前に今の三宮に匹敵する繁華街ができていたかもしれません。もし実現していたら、今の神戸の姿も大きく変わっていたことでしょう。

阪急はどうやって三宮に進出したのか

原田拱渠 (原田拱橋)

三宮進出の妥協案となった原田拱渠

しかし、阪急は三宮乗り入れをあきらめていませんでした。

阪急は妥協案として、鉄道省(JR)灘駅付近から三宮までは、すでに高架になっていた東海道本線に線路を併設し、灘駅から東の高架はアーチ橋にして、その下に神戸市が計画する幹線道路を通す案を示して神戸市を説得しました。

このころ、三宮周辺にも大きな動きがありました。

1931年、現在の元町駅にあった、鉄道省の三ノ宮駅が、滝道(現在のフラワーロード)へ移転。1933年には大型百貨店・そごう神戸店が開店。1934年には阪神が神戸市の要望に従って地下で三宮へ乗り入れます。

これらの出来事をきっかけに三宮地域は急速に発展していきます。

そして、1936年、阪急は悲願の高架での三宮乗り入れに成功します。と、同時に坂口通の阪急神戸駅は上筒井駅に改称、そして神戸線も、三宮乗り入れと同時に新設された阪急西灘駅(現在の王子公園駅)から延びる盲腸線・上筒井線となりました。

上筒井線廃線決定を報道する新聞

上筒井線廃線決定を報道する新聞
『大阪朝日新聞』1938年6月24日
神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫・交通(07-118)

上筒井駅に名前が変わった阪急神戸駅は、これまで周辺の学校に通う学生や、神戸市電に乗り換えて三宮へ向かう乗客らで賑わっていましたが、阪急が三宮へ乗り入れると、学生たちは新設された西灘駅を利用し、また三宮へは乗り換えなしで行けるようになったことから、上筒井駅の利用者は急速に減少。1940年には廃線となりました。

また上筒井線の廃線と同時に阪急は所有していた旧関西学院の土地・建物を神戸市に譲渡します。神戸市は旧関西学院の敷地内を貫き、阪急のアーチ型の高架・原田拱渠をくぐる幹線道路を通し、そこに東灘区石屋川まで延びる市電を敷設しました。

21世紀に蘇る“ネオ上筒井線”計画

上筒井駅

(駅名標作成:あかね)

2017年、再び上筒井線がクローズアップされる出来事がありました。

阪急が神戸市営地下鉄に相互乗り入れする計画が持ち上がったのです。そのルート案の一つに王子公園駅から市営地下鉄新神戸駅へ乗り入れる案がありました。計画では王子公園駅から地下路線で新神戸駅まで結ぶものでしたが、そのルートの一部は、ほぼ阪急上筒井線のルートと重なります。

もし阪急が三宮に乗り入れていなかったとしたら…。

1985年、神戸市営地下鉄は大倉山駅から新神戸駅まで延伸します。これを機に阪急は神戸東部の都心に位置していた(かもしれない)阪急神戸駅(上筒井駅)から地下鉄相互乗り入れを実現させ、新神戸を経由して三宮。そして西は西神中央、北へは谷上まで乗り入れ、京阪神を広域的に結ぶ路線を構築していたかもしれません。

最終的には、阪急の神戸市営地下鉄相互乗り入れ計画は白紙化されましたけどね。

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